藤田神社藤田神社

藤田傳三郎と藤田神社

広大な恵みの土地を
創り出した
藤田傳三郎を通して、
児島湾干拓事業と
藤田神社の歴史を知る。

世界有数の規模を誇る
児島湾干拓地域の守護神 《高崎地区・藤田地区・岡南地区・浦安地区・七区地区》《高崎地区・藤田地区・岡南地区
浦安地区・七区地区》

藤田神社が鎮座する岡山市の南側には、世界的にも有数の規模を誇る「児島湾干拓地」が広がっています。この一帯は岡山平野と呼ばれ、耕地2万5000ヘクタールのうち、2万ヘクタールが干拓によって作られた土地です。現在では、まるでパッチワークのように広がる広大な土地で、米や麦作などが行われる一大穀倉地帯として豊かな恵みを生み出しています。
藤田神社に祭られる神様は、この広大な地域の守護神です。

戦国〜江戸時代の藤田地区について

歴史はさかのぼること戦国時代、豊臣秀吉によって備中高松城の水攻めがあった天正10年(1582年)、当時、藤田地区一帯は20余りの島々が浮かぶ「吉備の穴海」と呼ばれる浅い海が広がっていました。岡山県の三大河川(吉井川、旭川、高梁川)が注ぎ込み、中国山地から運ばれてくる土砂によって広大な干潟が発生し、干拓に適した土地として、当時より江戸時代も含め、藩主によって細々と干拓は続けられていました。

干拓後の藤田の様子/岡山県立興陽高等学校蔵

藤田傳三郎と激動の明治時代

一方、藤田傳三郎は天保12年(1841年)5月15日、山口(長州)の造り酒屋の四男として誕生します。明治維新動乱のさなか、傳三郎は高杉晋作を師事し、騎兵隊へ入隊。これが後の豪商、政商と呼ばれ、明治時代の政治と経済を動かすことに傳三郎の運命の一歩となるのでした。

傳三郎は明治政府の中心人物、桂小五郎、山田顕義、井上馨、山縣有朋らと深い絆に結ばれ、それまで長州藩が持っていた大阪までの軍用武器運搬を一手に引き受け、大きな富を築きました。また山田顕義からの願いで軍用革靴の製造販売(現在のリーガルコーポレーション)を行い、明治2年、藤田傳三郎商社を大阪にて興します。後に西南戦争において莫大な富を得、三井、三菱と肩を並べる財閥へと成長するのでした。

その後も大阪を拠点に事業を発展させる傳三郎は、大阪経済の立て直しを図るために、大阪商法会議所(現:大阪商工会議所)の発起人となり、さらに2代目会頭に着任、大阪証券取引所の初代理事長を務めるなど、大阪の重鎮と呼ばれるまでになりました。

明治12年には福岡の伊加利炭鉱、13年には愛媛県の市ノ川鉱山を買収し、鉱山業(秋田 小坂鉱山・花岡鉱山・柵原鉱山他)をはじめます。14年には社名を藤田組とし、鉱山(鉱業)だけでなく、観光(藤田観光)、紡績(東洋紡)、電力(関西電力)、土木(大成建設)、鉄道(南海鉄道・山陽鉄道)、新聞(毎日新聞社)他、今日につながる礎を多数築き上げ、“東の渋沢栄一・西の藤田傳三郎”と呼ばれ、日本を大きく動かしていきました。

巨万の富を築いた藤田傳三郎でしたが、日本の国のため、慈善事業や学校教育の面で多額の寄付も行ったことでも知られています。

堤防工事、潮止め工事の様子/岡山県立興陽高等学校蔵

藤田家の私財を投げうった
児島湾干拓事業

明治時代を代表する政商として、各界で活躍した藤田傳三郎でしたが、とくに児島湾干拓事業は、彼の功績のなかでもひときわ異彩を放っています。藤田傳三郎は、広大な干拓地の埋め立てのために、藤田家の私財を投じ続けたという点で驚くべきものがあります。

児島湾干拓は江戸時代は岡山藩、明治に入ってからは岡山県による、いわば公共事業として進められていました。しかし県の財政は厳しく、また干拓事業のスケールの大きさを前に継続を断念します。夢のような話とまで言われた事業で、国に事業の継続を要請しても、必要資金があまりにも多額なため断られます。当時の県令(現在の県知事の役職)であった高崎五六は、関西や関東の財閥に事業継続のお願いに走ります。

しかしあまりにもスケールが大きく、成功の保証もない、採算がとれるあてがない干拓事業を引き受けてくれる者はいませんでした。そんな中、立ち上がったのが当時、大阪でゆるぎない地位を確立していた藤田傳三郎だったのです。干拓事業が持つ広大な国土再生計画に夢を感じた傳三郎は、国利民福を掲げて一歩を踏み出しました。

困難極まる児島湾干拓事業、
奮闘の日々

一歩を踏み出したかに見えた干拓事業ですが、明治22年に国の認可は下りるものの、地域住民からの猛烈な反対活動を受け、着工までに約10年がかかったと言われています。結果、工事がスタートしたのは明治32年でしたが、全工程が完成する昭和38年まで続く、苦難の日々の始まりとなりました。

想像以上の底なし沼の状態に、一間あたり1万3000貫以上の堤防を、延々と何十里も築こうとする、困難極まりない工事となりました。

松丸太杭を打ち込み、竹シガラを編み、堤心は土を盛り築きますが、数時間の内に泥の中に呑みこまれるというありさま。工法を変え、丈夫な基礎工事をし、その上に石垣を築き、石灰眞砂土のコンクリートで隙間を埋める工法にたどり着きましたが、地盤の悪さに苦難は続きました。この誰でもが放り出しそうな状況を、傳三郎は諦めることなく事業を続けます。

干拓は5500町歩(1650万坪)を第1工区~第7工区にわけ、莫大なる費用と時間が過ぎる中、明治45年3月30日傳三郎は完成を見ることなく他界いたしました。

傳三郎の後を継いだのは、藤田財閥2代目当主藤田平太郎でした。平太郎は第2工区末より事業を進めますが、彼にもまた苦難の道が続きます。でき上がった土地での塩害、水害、疫病など悩まされる中、平太郎は父の教えに導かれ、「神仏を尊ぶ事、成就の理也」と干拓の成就と土地の鎮魂を願い、大正4年に神社を建立します。これが当宮となる『児島湾神社』です。

児島湾干拓事業成就を祈って

当宮の社殿事態は大正4年に建てられていますが、灯篭や狛犬など、明治40年に寄進された物も残っており、神社の創建前より神々を祀っていた事がわかります。

当宮の神額を見れば、傳三郎の政商としての偉大さがよくわかります。神額の文字を書いたのは、平田東助という当時の内大臣(天皇の直下に勤める、陛下にもっとも近い存在)です。また、山縣有朋の側近でもあり、神社の神額文字を書くのにもっとも相応しいとして、藤田家から依頼したと考えられます。また神社灯篭は本山彦一をはじめ、干拓時の歴代藤田組所長が、事業の大願成就を願い奉納されたものです。

藤田神社の鳥居に刻まれている「合名会社藤田組」は、明治26年に社名変更されたもので、現在でいえば「藤田ホールディングス」となります。藤田傳三郎商社より明治14年に藤田組となり、現在は DOWAホールディングスとなって、傳三郎の魂は長きにわたり、受け継がれています。

明治32年から着工した児島湾干拓事業は、昭和38年についに完成をみます。約65年の歳月をかけ、大神さまが見守る中、成就を果たしました。「青海変じて美田となす」、傳三郎が描いた夢の美田が、皆の努力を持って達成され、今も豊かな恵みをもたらしてくれています。

干拓地の様子/岡山県立興陽高等学校蔵

「人の目利き」だった藤田傳三郎

明治時代に次々と偉業を成し遂げ、政治・経済に大きな影響力をもっていた藤田傳三郎ですが、あまり世の中には名前が出てきません。それは傳三郎の人柄に理由があるようです。傳三郎は前へ出ていくことが嫌いで、写真などもあまり残していません。とはいえ、日本の政財界には大きな影響力を持っており、人から助けを請えば必ず力を貸し、導いてあげていました。大阪の藤田家本邸には、政界、経済界の要人が途絶えることなく出入りし、傳三郎の意見を請うていたといいます。

また傳三郎は人を見る目にすぐれた“人の目利き”と言われ、また人材育成に長けていたと聞きます。さまざまな事業に適材と思われる人材を配置し、すべて成功へと導いています。

土木建設にありては、大倉喜八郎に委ね、大倉組から大成建設に、小坂鉱山は甥の久原房之介に委ね成功、房之介は後、藤田組より独立し、茨木の赤坂鉱山でも成功を収め、社名を日立とし、今の日立グループの創設者として久原財閥を創設しました。房之介の嫁は鮎川家からで、後鮎川義介にことを委ね、その後、日産コンチェルンとなります。干拓を任せた本山彦一は大阪毎日新聞の社長となり、東京日日新聞を吸収して毎日新聞社を設立します。他に北浜銀行頭取の岩下清周、三井の大番頭の中上川彦次郎など多数の日本経済界の偉人を育て上げました。

藤田傳三郎は国を愛する気持ちが人一倍強い人物でした。長州奇兵隊の心を強くもち、国の為に尽され、多くの偉業と日本経済の礎を築いた、明治の偉人です。その傳三郎の想いと魂が刻まれている当宮は、境内地・社殿はもとより、境内に残る灯篭・狛犬・すべてが藤田組より奉納され、また2代目当主藤田平太郎の妻・富子(芳川顕雅伯爵3女)の歌碑が建立されています。

藤田神社は児島湾干拓の地の大切な文化遺産として、これからも藤田傳三郎の偉業と国への想いを皆さまと一緒に後世に伝え、守ってまいります。

藤田美術館について

藤田傳三郎は明治の経済人として時代の中で輝き、多くの才能ある若者を引き立て、日本経済界の礎を築きました。一方で古くからの日本文化を大切にした美術品コレクターとしての顔も持っています。傳三郎は若い頃より、古美術への造詣が深く、とくに茶道具に対する鑑識眼は卓越してました。能や茶道をはじめ、日本文化を好み、邸宅には能舞台やたくさんの茶室を構えておりました。明治維新後の廃仏毀釈などの影響から、歴史的な美術品の数多くが海外へ流出していることに憂慮し、それを阻止するために膨大な財を投じて、収集しました。

藤田家が収集した多くの東洋古美術品は、現在も大阪にある『藤田美術館』に収蔵されています。明治の終わりから大正初期に建てられた藤田家の邸宅は、昭和20年の大阪大空襲により、そのほとんどが焼失されましたが、難を免れた庭園や蔵をもとに昭和29年に、美術館として開館、藤田家のコレクションを中心に公開されています。国宝や国の重要文化財、重要美術品に指定されているもの多くあり、日本の宝として大切に管理されています。

美術品を通して、傳三郎の国を大切にする情熱が感じられる空間です。ぜひ一度、足をお運びいただき、児島湾干拓地を創り出した傳三郎の想いに触れていただければ幸いです。

藤田美術館 大阪市都島区網島町10-32
TEL06-6351-0582

藤田神社社家 四代目宮司 今井 伸